「いやあ、なんか大丈夫そうな人だったからつい」
「ついじゃありませんよ。貴子さんも急に出てこない!」
「だってェ、お化粧してる最中にいきなり入ってこようとするんだものォ」
何だか騒がしい。まるで、頭上で誰かが口論しているような。
「あら、気がついたみたいよ?」
ドスの効いた声が耳に飛び込んできて、一気に意識が覚醒した。ぱちり、と両目を開けば、心配そうにこちらを覗き込んでいる顔が三つ。香澄、文、そして――さっき扉からにゅっと出てきた『髭面の美女』。
「ああああああ、待って! 倒れないで! アタシ怖くないから!」
懇願するように叫ばれて、どうにか遠のきかけた意識を引っ張り戻す。そうしてようやくはっきりした視界で周囲を見回すと、そこはフローリングの床にレトロなちゃぶ台だけがぽつんと置かれている、どこからどう見ても空き部屋という風情の部屋だった。どうやら廊下で卒倒しかけて、そのまま部屋の中に担ぎこまれたらしい。ということはここが一〇一号室か。
「えっと、あの……」
状況は把握できたものの、押し寄せる感情の整理がつかない。まず驚けばいいのか、怖がればいいのか――いや、ここは怒ればいいのか。
「道端さん!」
とりあえず的を絞って声を上げてみると、少し離れたところにちんまりと正座していた道端は「てへっ」と言わんばかりの顔で、ええとその~、と頬を掻いた。
「お客さんならイケると思ったんですよ。あんまり深く考えないタイプの人みたいだし」
出会ってまだ一時間も経っていない人にそこまで見抜かれているのも腹立たしいが、問題はそこじゃない。
「思いっきり事故物件じゃないですか!」
「あら、アタシここで死んだわけじゃないから、事故物件にはならないんじゃないかしら?」
「貴子さん。そういう問題じゃないと思う」
冷静に突っ込んだのは香澄だ。恐らく事態を一番正確に把握しているだろう彼女は、申し訳なさそうな面持ちでコホン、と咳払いをすると、ぴしりと居住まいを正して侑斗の正面へ向き直った。
「道端さんがきちんと説明をしないままお連れしたようで申し訳ない。ここは――『松和荘』は、何を隠そう『幽霊つきアパート』なんだ」
真面目な顔で言われると、なんだかそれが当たり前のことのように思えてしまうが、ちょっと待ってくれ。
「何ですか、その『猫つきマンション』みたいなニュアンスは」
先日ニュースでやっていた、『保護猫と一緒に居住することが条件のマンション』。最近、この新たなスタイルが密かなブームだとニュースでは報じていたが、猫ならともかく、幽霊となるとまた話は別だ。
「ああ、あのニュース見てた? なら話は早い。ここも似たようなものだよ」
軽い口調でそう答えて、香澄はぴっと人差し指を立ててみせた。
「松和荘には一部屋につき一人、幽霊が住んでいる。といっても、彼らは『物理的な空間』を必要としない。そこにいることを気にしないでいられる人なら、一緒に住める。彼らも、ここでなら
「いやあの、ツッコミどころは多々あるんですけど――そもそもなんで『一部屋に一幽霊スタイル』なんですか」
貴子さんと呼ばれていたバリトンボイスの彼――それとも彼女か?――は、ここで死んだわけじゃないと言っていた。それなら、どこか余所から越してきた幽霊ということになるのだろうか。
「おおっと、核心を突いてきましたね」
そう茶化した道端は、その貴子に「アンタは黙ってて!」と睨みつけられて、きゅっと口をつぐんで小さくなった。
「話せば長くなるんだけど……聞く?」
「ここまで来て、聞かないで帰るなんて出来ないですよ」
だよねえ、と大仰に肩をすくめて、香澄はどこから話したものか、とちゃぶ台に頬杖を突く。
そうして彼女が語り出したのは、松来家の重大な秘密と、そして現在の『松和荘』に繋がるとんでもない『発想の転換』の話だった。