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1.茨の聖女
 戦いは佳境を迎えていた。
 《瘴気の森》から次々と湧いてくる瘴魔の群れをおびき寄せ、砦へと誘導する。言葉にするのは簡単だが、実行するのは中々に骨の折れる仕事だ。
「一匹たりとも逃がすな! こちらへ引きつけるんだ!」
 実体を持たぬ瘴魔に剣や弓矢は通じない。しかし、彼らも元はただの生き物だ。人、獣、そして植物すらも、瘴気に飲み込まれたものはみな黒い靄のような姿となり、他の生き物を《森》へと引きずり込むだけの怪物と成り果てる。そうやって、じわじわと大地を侵食していく瘴魔との戦いは、すでに一年以上も続いていた。
 大陸の半分が飲み込まれ、いくつもの国が消滅した。勢力を増す《森》によって分断されてしまったストラ半島の住人は、岬に築かれた聖都フォルナスを拠点として討伐隊を結成し、瘴魔との戦いを続けている。国境線が変わってから百年以上放置されていた砦も、今や対瘴魔戦の最前線だ。
「無闇に剣を振るうな! 奴らの思う壺だぞ!」
「砦へ誘導するんだ!」
 瘴魔を攻撃しても靄を散らすだけ。散り散りになった靄はすぐに形を取り戻し、再び襲い掛かってくる。ならば討伐隊の役目は何かといえば、てんでばらばらに動き回る瘴魔を誘い出し、羊の群れをまとめる牧羊犬の如く追い込むこと。それに尽きる。
「うわあああ、来るな! 来るなぁ!」
 甲高い悲鳴を聞きつけて、小隊長リューグは僅かに眉を顰めた。
 武器は効かないと教えられてはいても、いざ実戦となると気が動転して、馬鹿正直に斬りかかる者がいる。今まさに瘴魔ににじり寄られ、我を忘れて剣を振り回している少年は、半月ほど前に入ったばかりの新人だ。やれやれと嘆息して、リューグは腹の底から声を上げた。
「《茨》の加護を!」
 大音声に怯えたように、瘴魔が一瞬だけ動きを止める。その隙を逃さず《祝福》された大剣を振るえば、一瞬で上半分が消し飛んだ。靄の体はぐずぐずと形を失い、そして風に融ける。滅したのではない、瘴気の根源である《瘴気の森》へと還っただけだ。
「あ、ありがとうございます、リューグ隊長!」
 半泣きで感謝の言葉を述べる少年は、よく見れば膝が笑っているし、剣を握りしめる手も震えている。己にもこんな初々しい頃があったのか、と思ってしまうほどには戦い慣れしてしまった自分に些かうんざりしつつも、リューグは少年の肩を叩いてやった。
「もう大丈夫だ。接近されても慌てず、すぐに距離を取れ」
「は、はい!」
 ぎこちなく敬礼をした少年の視線は、先程からリューグの手にした大剣に釘づけだ。
「隊長の剣は、瘴魔を斬ることが出来るのですね」
「斬れるだけだ。滅することができるわけじゃない」
「それでもすごいですよ!」
 彼が身をもって知った通り、瘴魔にはどんな攻撃も通じない。しかし、高位の聖職者が長い時間をかけて祈りを捧げ、聖なる力を纏わせた武器であれば、瘴魔を斬り、一時的に無効化することが出来る。ただし《祝福》が行える者は限られているため、所持しているのは討伐隊の中でもごく一握りの精鋭だけだ。
「さあ、もう少しだ!」
「はいっ!」
 駆け出していく少年を見送って、自らも次なる標的を求めて地面を蹴る。もうじき頃合いだ。それまでに少しでも多くの瘴魔を集めておきたい。今日は瘴魔の数がいつもより多く、戦場を駆ける隊員達の顏にも疲労の色が濃く現れている。相手は無尽蔵に湧き出る瘴気の塊。体力に限界があるこちらの方が圧倒的に不利だ。
「聖女様がお待ちだぞ! 気合い入れろ!」
 誰かが叫んだその言葉に、隊員達の瞳が輝きを取り戻した。
 そう、こちらには《聖女》がいる。武器や魔法の効かない瘴魔に対抗し得る術を持った唯一の人物。《聖女》は瘴魔討伐の切り札であり、人々にとっての『最後の希望』でもあった。
「聖女様のために!」
「茨の加護を!」
 自らを鼓舞するように声を上げ、瘴魔へと立ち向かっていく隊員達。その勢いに押されるように、瘴魔達の動きが鈍くなる。
 ほどなくして、砦から紅い狼煙が上がった。待ちに待った『準備完了』の合図だ。
「合図だ! 取り囲め!」
 号令が飛び交い、隊員達が一斉に砦へと走る。古びた砦の端、辛うじて残った物見櫓を囲むように蠢く瘴魔の群れ。一匹たりとも取り零さぬよう所定の配置についた隊員達は、物見櫓の上に現れた人物に歓喜の声を上げた。
「聖女様だ!」
「お見えになったぞ!」
 目の前に瘴魔がうようよしているにも関わらず、その熱の入った声援はどんどんと高まり、異様な熱気が辺りを包む。
(あーあ。こりゃ今日も荒れるな)
 ただ一人、げんなりと顔を覆っていたリューグは、無駄と知りつつも、自身が率いる小隊の面々には釘を刺しておいた。
「紋章が発動するぞ! 目を閉じろ!」
 忠告も虚しく、隊員達の視線はただ一点に集中する。
 崩れかけた鋸壁の上にすっくと立ち、瘴魔の群れを睨みつけている少女。白い外套に身を包み、微風になびく柔らかな髪は青みがかった銀色。彼女こそが聖なる封印の使い手、《茨の聖女》だ。
 小難しい古代神語の詠唱が始まると、その小さな体が青白い光に包まれ、巻き起こる風に外套が大きくはためく。
「おおっ!」
「いよいよか!」
 潮騒のようなどよめきに、リューグは大きく天を仰いだ。
 櫓の上、一心不乱に聖句を唱えていた少女がくるりと背を向け、外套をかなぐり捨てる。
 華奢な体を包む白銀の鎧は申し訳程度に肌を隠すのみ。すらりとした手足や引き締まった腰、更には際どく露出した尻から太腿にかけての滑らかな曲線までもが陽の下に晒される。
 しかし何よりも目を惹くのは、その右臀部に刻まれた《茨の紋章》。花びら一枚一枚まで精緻に描かれた野薔薇、その茨は華奢な体に絡みつくように太腿から膝下あたりまで伸びている。
 清らかさと妖艶さが入り混じるそのいでたちに、隊員達が熱狂するのも無理はない。
「いよっ、聖女様ァ――いてっ!」
 大興奮で叫んだ近くの隊員に容赦なく拳を叩きこんで、リューグは重苦しい溜息を吐いた。
「だから見るなって言ってんだろうがよ」
 こちらに背を向けてはいるが、彼女が今どんな表情をしているか、つき合いの長いリューグには手に取るように分かる。しかし、凝視してしまう男達の気持ちもまた、痛いくらいに分かってしまうのだ。
(……ったく、罪作りな紋章だよな……)
 長い詠唱が終わり、紋章がどくん、と脈打つ。そして――弾けるような光と共に、紋章がふわりと浮き上がり、光り輝く茨の鞭となって、集められた瘴魔をぐるりと取り囲む。
「滅せよ!!」
 一層輝きを増した茨が瘴魔の群れをぎゅう、と締め上げ――そして次の瞬間、パァァァンッ、と弾けるような音と共に、一切が消え失せた。
 一瞬遅れて、地鳴りのような歓声が沸き上がる。
「聖女様、万歳!」
「俺達の勝利だ!」
 歓喜に咽ぶ隊員達は気づかない。瘴魔を滅した光の茨が再び聖女の足へと巻きつき、その白い尻に鮮やかな花を咲かせたことを。聖女が慌ただしく外套を引っ被り、まるで逃げ帰るように砦へと引っ込んだことを。その瞳に、大粒の涙が浮かんでいたことを。
 やれやれ、と肩をすくめて、リューグは愛用の剣を肩に担ぐと、砦に向かって歩き始めた。

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